【校長室より】卒業式の日の空

 昔から卒業式の日の空が何となく好きで、春草の香りと野鳥の囀りに包まれる中、門送りの時などに空を見ていると、未来に向かってどこまでも歩いていけそうな気がするのです。これから先どんな人と出会うことができるのかと、この歳になってもワクワクした気持ちになるのです。

 本校の同窓生はおよそ二万三千人。この学び舎から巣立っていく時、皆それぞれどんな思いで空を見ていたのだろうかと考えると、無性に愛おしくなります。少しでもその気持ちに近づきたくて、先日松鷹会館の倉庫から古い生徒会誌を引っ張り出してきました。

 記念すべき第1号は大正五年に発刊されています。当時は卒業生からも多くの原稿が寄せられ、在校生と卒業生の繋がりを深く感じさせるものになっています。その後暫く続くわけですが、昭和十年頃から戦地からの寄稿が増え、昭和十三年からは志那事変戦没者の名簿が掲載されるようになり、昭和十五年の第二十五号を最後に旧制礪波中学校時代の発刊は途絶えています。この頃は学校行事や部活動の記事が細々となる中、文中には「勝つ」とか「耐える」などといった言葉が多く使われています。迫り来る戦争を前に、生徒達には果たしてどんな空が見えていたのでしょうか。

 砺波高校としての第1号は、日本が新しく生まれ変わり経済復興最中の昭和三十年に発刊されています。旧校舎焼失後現在の地に移転し、新校舎で学んだ初めての卒業生によって作られたものでした。戦前とは打って変わり「思想の自由」「健全な発展」「自分らしい生き方」などの言葉が多く使われており、希望にみちた生徒達の表情が浮かんできます。その中で二学年の生徒が書いた「生きる喜び」という論文にふと目が留まりました。

『三月一日、ビキニ環礁上の一発の爆弾は無心に遠洋漁業に出かけた無辜の漁師達に原子禍を浴びせ、今日なお病床に横たわっている人達を思う時、私は叫ばすにはいられません。戦争よ、永久に此の地上より姿を消せと私は絶叫したいのです…』

 この言葉には、第二次大戦後も冷戦状態や核実験等が続く中で、せっかく掴んだ生きる喜びを手放したくない気持ちが溢れ出ています。他にもこの頃の会誌には、平和を希求し、世界中の人達と繋がりたいという生徒達の強い意志を感じます。

 感染症、各地で起こる紛争と災害、広がる経済格差、Society5.0の影。現在は、もしかすると当時よりも危険な状況にあるのかも知れません。だからこそ、これからの時代は多様性を身につけること、つまり様々な人の立場や思いを受け入れ、その上で自分に何ができるかを考え行動することが重要なのです。人々と繋がりたいという純粋な思いが必要なのです。

 僕が座右の銘としている格言の一つに「桃李不言 下自成蹊」があります。「桃や李の下にはおいしい実を取るため人が集まり自然と小道ができるように徳があれば自然と人が集まってくる」という意味で、司馬遷の著書史記の中で漢の将軍である李広を讃えた言葉です。李広は決して偉ぶることなく、部下達と共に食事を楽しみ、よく話を聞き、自分よりも先に配下の者に恩賞を与える人物だったことから、たくさんの人が自然と彼の下に集まってきたそうです。

 高校会誌第二号で「友情について」という随筆を寄せた女子生徒がいます。偶然にも同じ格言を引用して、人の絆を育むためにはどうあるべきか自らの主張を展開していました。彼女は続けてこう述べています。

『友を得る唯一の方法は自ら人の友たるにある』 この精神こそが、遠い空の下にいる世界中の人と繋がるための最大の秘訣なのかも知れません。

 

令和六年三月一日  校長 中村謙作

大正五年 礪波中学会誌第1号

昭和十五年 中二十七回卒業生

昭和三十年 砺波高校会誌第1号